ボクのブログを見てくれて レースをしてたころの友達 わざわざ学校に連絡くれた
小学校高学年 ものすご いろんな記憶がある時期ちがいますか?
ボクが建築に惹かれるんは
こういった 記憶を 包み込むように
常にそこにだれかと一緒に過ごした時間や空間があるからとちがうか?
と思うことがある
今日の出来事はまさにこの状態
直接的に 建築とは 関係ないようにかんじるかもしれんけど
ボクの場合 強烈にこういった瞬間や出来事にケンチク的な なんかを感じる
でも これって建築を作る時ねらってやる事は非常に難しい内容じゃとおもう
なんでかというと
建築は表現とかのレベルではなくその性質そのものが静的なもんで
ケンチクに関わる沢山の要素は 非常に動的なもの が 多い
静的とか動的とかいうこと自体が 実はよーわからんけど
静的な性質を持ってして 動的な物をどうあつかうのか?
ちゃうな
ようは わりとボクらの生活の中で建築物自体は簡単に動かせんけど
それが連続して街とか暮らしとかいうレベルになるとすごく変化が大きい
だから 固定して動かんわりに まわりでちょろちょろかわる事や
起きる事を先に考えるんは難しいゆうことじゃな
ましてそこに良い思い出を作ってもらおうなんていう事になると
良い思いでってなんなら?
なんていう話になってきて
ほらな 難しなって来たじゃろ?
だけどボクはこの変化の動きが大きい部分からケンチクてできんのかな?
みたいなことを考えてる
気がする
話がややこしい方向に向いてしもーたけど
昔 レースしてて 同じ時間や 場所を 共にすごした友達
これって なにかしら 共通の領域におるよね
それが レースやめて 個々の領域でほのかに存在を残しながらも薄くなっていく
で また なんかのきっかけで 薄れた領域が 重なる
目には見えんけど そこに 空間みたいなん感じるじゃろ?
こいう ふわふわした感じ かったいかったい ケンチクではつくれんか?
いきなりまとめると
建築と建物はちゃうぞ
横断する建築 こんなかんじか